特定の分野で頭ひとつ飛び出た成果を出す人に向けてよく使われる、「あの人には才能がある」やら「天才が現れた」という言葉。
ぼくは個人的に、それらの言葉がとても嫌いです。
その言葉を使って誰かを認めてしまうと、まるで自分には一切の勝ち目がないように感じてしまうから。
「才能」と「天才」への、何をやっても敵わない感
何も持っていないぼくは、地道な行動の積み重ねでしか上へ進むことができないと思っています。
学生時代の勉強でも、部活動でも、ブログでもそうでした。
頭がいい訳でも、運動神経がいい訳でも、文才がある訳でもないから、ただ地道にできることをひたすらやる。
そうやってこれまで生きてきたぼくが、才能の持ち主と呼ばれる人に出会ったとき。
ぼくが積み重ねてきた行動はその人が天から授かった才の足元にも及ばないと思うと、すごく悔しいんです。
だから簡単に誰かを「天才」と認めるようなことはしたくない。
同じ分野で競っている相手がそれなら尚更です。
それを認めた瞬間、自分で「ああ、ぼくがこの人と戦っても勝ち目はないんだな」と諦めてしまうも同然だから。
もちろん天才と呼ばれる人だって、行動の積み重ねなしに目立っている訳ではないと思っています。
「才能があるから成功しているんだよね」なんて言ってしまうのは本当に失礼なこと。
その人の努力を尊重するためにも、ぼくが誰かをむやみに「天才だ」と認めたくありません。
自分の力で成り上がっていけると信じている
「天才」だとか「才能」なんて言葉を聞くと、本当は自分にもそれがあるんじゃないかと思ってしまいます。
その才がいつ何時、どこで発揮されるのかをまだ知らないだけで。
探せば自分のそれを武器に輝ける舞台がどこかにあるんじゃないか、と期待をすることもあります。
今、そう崇められている人たちは自分が輝ける舞台を見つけただけのことなんじゃないかって。
ぼくは天才なんて呼ばれたことがないので、そう呼ばれる人の気持ちはわかりません。
人より少ない力を注いで、人よりいい結果を残すことができるんだろうか。
その感覚ってどんなものなのか。
わからないけれど、ぼくは自分の熱量と行動次第では「天才」にも並ぶことができると信じています。
綺麗な言葉を使って言うなら努力の人。
努力って言葉を使うと少し薄っぺらく聞こえるのであまり好きではないのですが・・・。
だからぼくは「天才」を認めません。
自分には勝ち目がないって認めることが、何よりも悔しいので。
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いわた
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