新人に厳しい日本の文化。壊れないのは、人と違うことが怖いから

出る杭は打つ。日本はそんな国だと言われています。

みんなで同じことをしていれば安心で、みんなと違っていると不安になる。

自分よりも優れている人がいれば焦って、それで急いで批判して、自分と同じステージに引きずり下ろそうとする。

そんなことばっかりしている日本人の元でも普及したインターネット。

 

海外では、みんなと違うことをしているほど賞賛される、なんて話を聞いたことがあります。

革命的な出来事、革新的なことに対してみんなが興味を持っている。そういう環境だからベンチャー企業も勢いをつけやすい。

流行の発端はいつも、海外から。人と違うことをすると賞賛される海外から。人と違うこと、新しいことは素晴らしいとされる文化が土台にあるからこそ。

 

YouTuberと呼ばれる職業も、海外だけでなく日本にも増えてきました。日本でも、それが成り立つようになってきました。

そういう夢を掴むチャンスが訪れたことは本当に素敵なこと。ぼくはそう思っています。

 

一方で、いつまでも頑なに日本人脳な人たちがインターネットに手を出してしまうこと。これはもう、最悪極まりないことだと思っています。

人が新しいことを始めようとすれば、それをインターネット越しに叩く。匿名で批判する。

頑固な日本人脳の人たちがネットの世界に接続すれば、今までよりもっと陰湿に、相手に自分の素性を知られないままに批判することができるようになって。

元から人の批判が大好きな、陰で人を批判することが大好きな人たちが集まった国、日本。ここでそんな人たちがネットに接続することはもう、害でしかありません。

 

海外なら、新しいことを始めた人のことを応援する文化がしっかりとある。だから、そこからも多くの挑戦者とスターが生まれる。

日本ではむしろ、自分は何もしないままにそんな人たちを批判して、同じ土俵に引きずり下ろそうとする。

例え挑戦する人がいても、批判の声に負けてそれを辞めてしまう可能性だってある。スターが生まれる可能性を、みんなが全力で潰しにかかる。

 

こんな文化を、本当にクソだなとぼくは思います。

自分に全く関係がない人のことを批判しようとするのか、その気持ちが全く理解できない。悔しいなら、嫉妬の気持ちを抱いたなら、せめて自分も頑張って相手と同じステージに立てばいい。

何もしていないくせに、相手のことを批判する。意味が分からない。

 

ぼくも少し前から、YouTubeに自分でギターやベースを使って好きな曲を演奏した動画を公開するようになりました。

 

そこにも、すぐさま批判するようなコメントがいくつもついて。

需要があるかどうかなんて、どうでもいいことだ。ただぼくは、せっかく弾けるようになったその曲も、部屋の中だけで自己完結させるのはもやもやすると思っていて。

それを”弾いてみた動画”として投稿することで、ひとつの形にしたかった。整理しておきたかったから、投稿してみただけ。

あわよくば多くの人にも見てもらえれば、という気持ちもあります。

 

ただ、ひとつも動画を投稿していない奴に、それに恐らく楽器も弾けない奴に「誰に需要があるんだ」なんて言われたくはない。

弾けるようになるまでに時間がかかったことや、楽しいけれど覚えるのが大変だったここまで。

それをようやく形にした動画に、1ミリも行動を起こしていない奴から批判をされたくはない。

もっと言えば、そんなクソみたいなコメントに心を折られて動画の投稿を辞める気は、全くもってない。第一、下のステージにいる奴に言われた言葉は、響きもしない。

 

他にも、動画には「弾いているところが本家と全く違う。早く動画を消せ」というコメントもあって。

音楽って、音を楽しむと書きますよね。その名の通り、ぼくは音を楽しむことを目的にギターを弾いています。

だから自分なりに、これをやったら楽しいなと思うアレンジも入れてみたりして。

 

すると「本家と違う」って。当たり前じゃないですか。ぼくはただ、自分が好きなように音を楽しんでいます。それの、一体何が悪いって言うんでしょうか?

動画では、ぼくはずっと好きなバンドの曲を弾いていて。ライブにもたまに行くのですが、そこでドラムのメンバーがこう言っていたことがあります。

 

「俺、この前ファンの人から「この前のライブで、あの曲のあの部分がCDと違っていましたね。あれ間違えてますよね?」って言われて。いや、あれ間違えてねーし!ライブだからアレンジでああやってるの。ボーカルとかギターだとアレンジしても楽しんでもらえるけど、ドラムだと「間違えましたよね?」って。そうじゃなくてアレンジなんだって」

 

怒っている様子ではなくて、冗談半分で「こんなことがあったよ」と言っている雰囲気でした。

ただ、プロですらそんなことを言われてしまうなんて。

教科書通りが全てで正しい。それ以外は間違っている。人と違うことは間違いである。みんな、そう思ってるんだなと改めて感じてしまいました。

 

どうしてそんなに、人と違うことをすることに厳しいのか。無名のお笑い芸人やバンドには見向きもしない。

だから新しいものが生まれてこない。自分たちで批判して潰しておきながら、そんなことを偉そうな顔で言っている人もいたりして、呆れてしまいます。

 

ところが、例え無名でも”あの有名な○○さんも認めた”なんて一言がつけば、途端に夢中になる。高評価する。

無名だった人が売れれば、掌を返す。芸能人も売れた途端に親戚が増えるなんてよく言います。

 

要するにみんな、自分の頭で考えていないんですよね。

その音楽が格好いいのか、そのファッションが格好いいのか、その漫才が面白いのかを、本当は自分の頭でなんてこれっぽっちも考えていない。

人の評価が全て。みんながいいと言っていれば、それがいい。なぜなら、みんながいいと言っていないものに自分が魅力を感じている、ひとりぼっちの状態が怖いから。

 

「あれ、この感覚を持っているのは自分だけ?それじゃあ、他の人と違う自分の感覚がダサいってこと?」

やっぱりここでも、人と違うことが怖いからです。

 

例えばブログをやっていても、記事にたどり着くための検索ワードって確認できて。

ぼくのある記事にたどり着くへ至ったワードには「○○(コーディネートやブランド名) ダサい」なんてものもちらほら。

そういった類の記事を書いた記憶はなくても、ある程度検索ワードが一致すれば結果に上がってきてしまうから、それも計測しているんですね。

 

そうやって検索した人の心理は、そのブランドをダサいと思っている人は他にもきっといるはず。だからこの気持ちを共有したい。

もしくは、そのブランドの服を着たいけれど、これって周りから見たらダサいのかな?と思っている人。

 

そもそも人間は共感の生き物だから、前者の気持ちは仕方ないけれど本能。

後者なら、そんなものは自分で決めろって話です。人からどう見られたって、自分がそれを格好いいと思っているなら、それでいい。

周りの評価なんて気にする必要は、全くどこにもない。それでもそんなことをわざわざ調べてしまうのは、やっぱりみんなと違うことをするのが怖いから。

 

何をするにしても、いつまでそんなことを言っているんだ。いつまで、みんなと違うことを怖がっているんだ。

自分の頭で考えて、自分が正しいと思うことをやればいいだけの話。人がどうとか、気にする必要はさらさらない。

そうやって一生”みんな”に合わせ続けていたら、”自分”なんてものは存在しない人生をグダグダ続けていくだけなんじゃないか。

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いわた (岩橋康太)

いわた (岩橋康太)

就活でアピールできる特技として格好いいことを言うため、大学3年生の夏にブログを始める。結果、40社受けて内定がゼロだったため、やけくそで新卒ながら”プロブロガー”になった23歳。ブログの広告収入で生計を立て、自由な毎日を過ごすも、自分が本当にやりたいことは何なのかが分からずに彷徨っている。洋服が好きで、ファッション専門ブログも運営しています。 ▶︎いわたの偏愛コレクション
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