人目を気にして偽りの自分を演じる。日頃『舞台』から降りて生きるために

この年になってつくづく思うのは、一人でいるときの心地良さ。

自分の好きなときに、好きなことをできる自由と、それが与えてくれる心地良さです。

 

小・中学生の頃は、校内に一人でいるなんて考えられませんでした。それはつまり、周りから見たときに”友達がいない奴”認定をされてしまうから。

思えば小学生の頃なんて、トイレに行くときでさえ「一緒に行こうぜ」なんて言いながら行動する、”連れション”なんて言葉があったくらいです。

 

ぼくがそんな集団行動のしがらみから解放されたのは、高校生になった頃でした。

中学生の頃までは、皆でいることがどんなときでも正義だった。

仲間外れにされないように、皆が集まる日には絶対に顔を出しました。例え自分が乗り気じゃなくても、そこにいないと翌日の話題についていけないから。

 

でもいつしかそんなことにも疲れて、集団を離れるようにすると、ものすごい退屈は感じるものの、同時に自由も手に入れて。

高校生になってからは、無理に友達を作ろうとせず、ただただ自分が思うままに生活を続けていました。

そうしてできた友達との方が付き合いは深く、そして長く続いていて、今でもたまに会ったりもして。これでよかったんだなと思えています。

 

そんなぼくは、小さい頃から「自己中」という言葉と戦ってきました。

これは母親からよく言われていた言葉でした。「お前は本当に自己中だな」って。

 

自己中心的。母親が誰かと会話しているときにも、自分が疑問に思うことがあれば「これってどういう意味なの?」と会話を割って話しかけたり。

「今、こっちで話してるんだから、割ってまで入ってくるなよ」

今思えば当然の答えが返ってきていました。

 

それからというものの、ぼくが自分がどれほど”自己中”なのか、正直なところ、それを未だに分かっていないように思っています。

例えば学生の頃だって、友達と一緒にデパートへ服を買いに行ったときも。

ぼくはあっちのお店も見てみたい。でも、友達が行きたいのはこっちのお店。

もちろん、最初にひとつくらいは「俺はここに行ってみたいな」と意見を述べてみたりはしますが、その後の安パイが難しくて。

 

あんまり「あのお店にも行ってみたい」って言ったりすれば、それこそ自分の行きたい場所に連れ回してばかりで、つまり自己中になってしまう。

バランスよく、お互いの行きたいお店へ交互に行ったりしておけば、ベストな配分なんだろうか。

 

そんなことを考えているうちにいつしか、どこへ行くにしても、何をするにしても1人でいることが最も楽だと思い始めるようになりました。

本当はあのお店にも行ってみたかった。そう思ったとしても、「また今度、一人で来たときにゆっくり見ればいいか」

そう思って、その日は引き返し、すぐ次の日にまた一人で同じ場所に足を運んでみたりして。

 

一方で、ぼくの意見を否定も肯定もせず受け入れてくれる友達と一緒にいると、相手から意見が出ない分、相手をガンガン振り回したりしちゃうんですけど。

これはちょっと自己中だな、とは思いつつも、とはいえ「特に行きたい場所がない」と言われてしまえば、こちらで意見を出すことが相手にも楽しんでもらう為の方法なのかな、と思ったり。

 

こんなことをやってるようじゃ、ぼくには到底、誰かと一緒に行動するってできないな。

それはそれでいいんだけど。というか、その方が実は楽だな、と思っていたり。

 

好きなバンドのライブに行くのも、旅行も、何をするにも基本的には単独行動。ぼくにとってそれは、至極当たり前のことになっています。

やっぱりぼくは小さい頃から今に至るまでずっと、どこまでが自己中で、どこからがそうじゃないのか。その境界線を未だに知ることができていないから。

 

24時間365日、それを考えながら生きている訳じゃありませんが、どこか頭の片隅には”問題”として置いてあります。

不思議なことに、小説を読むという行為をすると、そんな問題がどこからは引っ張り出されてきて、主人公の人格とリンクしながら”共感”という形に変わっていくことがあって。

 

西加奈子さんの『舞台』という作品を読みました。

何をするにも、どこへ行くにも、人目を気にしすぎている主人公、葉太のお話です。

基本的には、人と同じでいたい。極力、出る杭にはなりたくない。

ぼくも同類ですが、正直、日本人ってすごく気持ち悪いと思っていて。

 

同調圧力が強すぎて、いつでも皆で同じことをしていたいと思う人たちじゃないですか。

そこから少しでも飛び出したものなら、皆してボコボコになるまで叩く。これ、めちゃくちゃ気持ち悪い。

そのくせ、自分は”皆”と違っていたいと考えるものなんですよね。愚かなことに。

 

だから他人を叩く人って、同調圧力の中にいながらも、飛び出した杭をどこか羨ましい目で見ているんだと思います。

嫉妬の気持ちから、そんな杭を全力で打ちに行く。気持ち悪い。

 

皆と一緒でいたいと思う。でも、心の内では”その他大勢”の人々とは違っていたい。

じゃあどうするかっていうと、その隠しきれない欲求を徐々に小さなところで発散しようと試みます。

誰も着ないような、派手な柄の服を着る。そうすることで、人と違う自分をアピールします。

それが本当に好きで着ているならまだしも、ただ”自分は人と違う”そう思いたいから、派手な服を着る。

ファッションって何よりも自由なものであるはずなのに、いつしか自分が着たいものじゃなくて、周りにどう見られたいかを優先して服を選ぶようになっていたり。

どうしてそんなに事細かに書けるかと言うと、これは他でもなく大学生の頃のぼくだったからです。

 

そうやって、同調圧力に押しつぶされるあまり、人目を気にしすぎて生きてきたのが『舞台』に登場する葉太。

人から見て最も自然な振る舞いを目指してAという行動を取るも、後になってそんな行動をした自分を恥ずかしく思う。

ずっとそれの繰り返しで、どこまで行っても終わりがないんですよね。何をしても不正解。どうしたって、最適解ではない。

 

面白いのが、そんな日本人らしさの塊である葉太の姿を、旅行先のニューヨークで描いているところでした。

同調圧力に押しつぶされているのは日本人だけ。外国の人たちはそれぞれに”らしさ”を持っていて、それが人と違うことに違和感は覚えません。

むしろ、人と違っている人の方が高く評価される社会です。言うなれば、日本とは全く逆の価値観がそこにある。人と同じことは、厳しく言えば存在しないも同然だから。

 

当然、海外旅行としてニューヨークに来た葉太のことを、現地の人たちは誰も見ない。微塵も気にしない。

みんな違ってみんないい。そこは、そんな社会だから。日本とは真逆の世界だから。

 

葉太も、初めての海外旅行でそのことに気付いたのかもしれません。

自分が見ていた世界だけが全てじゃないことに。もっと多様な価値観があることに。そして、ここでは自分が思っている以上に、他人は自分を見ていないことに。

 

アメリカと比べれば、日本では他人も自分を見ているかもしれません。

ただその視線は自分が気にしているだけで、実際は自分が思っているほど、他人は自分のことを見ていないものです。

違う空の下でそのことに気付けたのなら、もっとあるがままの自分で生きていけるかもしれません。楽になるかもしれません。

人にどう見られるか。どう見られたいか。そればかりを、まるで舞台に立つ俳優のようにして演じていた生活を辞め、そんな舞台から降りることができるようになるかもしれません。

 

人からどう見られるかを気にしてばかりいる人に、多くの日本人に、日頃の舞台から肩の力を抜いて降りるための勇気を、優しく与えてくれる小説です。

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いわた (岩橋康太)

いわた (岩橋康太)

就活でアピールできる特技として格好いいことを言うため、大学3年生の夏にブログを始める。結果、40社受けて内定がゼロだったため、やけくそで新卒ながら”プロブロガー”になった23歳。ブログの広告収入で生計を立て、自由な毎日を過ごすも、自分が本当にやりたいことは何なのかが分からずに彷徨っている。洋服が好きで、ファッション専門ブログも運営しています。 ▶︎いわたの偏愛コレクション
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